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コラム

現役ケアマネのリレーコラム【第7回】

ケアマネージャーのホンネを毎月更新!

株式会社孝新堂 ケアプラン新
大阪府
行松孝祐さん

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信頼関係(ラポール)から生まれるケアプラン

はじめに

株式会社孝新堂 ケアプラン新(あらた)の行松孝祐(ユクマツコウスケ)です。

私は昭和36年生まれでして、今年の7月に還暦になりました。大阪府の出身で、中学高校時代は甲子園を目指して野球一筋に情熱を燃やしていました。私の時代はドカベン香川や牛島率いる浪商が旋風を巻き起こした時代でした。
高校野球の結末は散々でしたが、夢を追いかけることの大切さ、自分を信じるということは自分に一番厳しい自分であらねばならないことを学びました。掛け替えのない、とてもよい思い出です。

大学は選手では叶えられなかった、甲子園への夢を監督として叶えようと高校の体育教師を目指しましたが、人生はうまくいかないものですね(泣)。教員採用試験を受けても毎年不合格で、結局4年で諦めることになりました。

創造健康協会での研修

ちょうどそのころ大学ゼミの教授より「京都に心身一如の医学を実践している医師がいるので、そこに行って修行をしてきなさい」と紹介を受け、創造健康協会に就職したのが27歳でした。
創造健康協会では無気力、鬱病、ノイローゼ、統合失調症などの症状で精神科にかかったものの改善せず、薬漬けになって就業不可能になった方々や登校拒否児童が多く、世間からは「社会不適合者」というレッテルをはられた方々が中心でした。

創設者のドクターは外科医でしたが、胃潰瘍をOPEで完治させたのに、また潰瘍を作って再受診する、甘いものをさほど食べない患者なのに脂質異常症や糖尿病だったり…治療をしてもまた再発して受診を繰り返す患者を診て「医者や薬が病気を治すのではなく自分自身に病気を治す根本がある。病気は自分自身の物の考え方や生活の在り方に起因するものである」という心身一如の医学理論を実践実証される施設を運営していました。
施設では20名程度の研修生とともにひとつ屋根の下で寝食をともにしながら、生活リズムの再構築、体力づくり、薬剤に汚染された身体の浄化のためにしっかりと汗をかくこと、生活相談などなど多岐にわたり、私が担当をしていました。

研修生のなかには、学業優秀で大学を卒業し有名企業に就職し順調に昇進を続けてきたが、中間管理職となり上司と部下に挟まれて過度のストレスで安定剤の使用が過多となり、気が付けば「笑う」ことを忘れ薬剤漬け人間になってしまった方々、親や教師との関わりに馴染めず拒否反応を起こしてしまった子どもたちなど、延べ数百名の研修生と過ごしてきました。この期間に「傾聴すること・信じること・待つこと」が大切なのだと実感しました。

高齢福祉業界へ

平成10年(1998年)、初めて高齢福祉業界に足を踏み入れました。介護には全くの素人の私でしたが、在宅介護支援センターに配属されました。在宅介護支援センターはソーシャルワーカーと看護師の2名で構成され、地域の在宅高齢者の相談支援を行いヘルパーやデイサービス、ショートステイなどの適切なサービスに繋げたり、ベッドや車いすの給付事業を申請代行したりで、在宅介護を根付かせていくことが狙いでした。

地域の自治会役員の方々のご自宅に伺い事業の役割を説明していきましたが、社会福祉法人の売名行為と受け取られることも多く門前払いされたことも多かったです。それでも地道に活動を続けていく中で少しずつですが認知度が広がっていったことはとても嬉しかったです。

介護支援専門員として

介護支援専門員としては、平成12年から居宅介護支援事業所で在宅介護支援センターと兼務で始めることとなりました。当時は現在のようにしっかりとした研修システムがなかったので、「アセスメント」、「モニタリング」という言葉さえも理解不足、「ところでケアプランってどうやって作るの?」…何も知らない私にとっては浦島太郎が竜宮城に来て幻想にふりまわされているようなスタートでした。

世間では介護保険の普及啓発がどんどん進んでいくなか、自信をもって介護支援専門員ですと言いたい、認められたいという一心で日夜勉強を重ねましたが、なんとか解るようになるまでに5年ほど要しました。
今まで数百名のケアプランを作ってきましたが、やはり醍醐味は毎回毎回の面談の積み重ねから醸成される信頼関係(ラポール)だと思います。面談の積み重ねが徐々にお互いの距離を短くしていき、やがては信用につながっていく過程で感じる信頼関係はケアマネ冥利に尽きると思います。

色々なお話しがありますが、私にとって特に思いで深い事例を以下に記します。

Aさんのお話

複雑な家庭環境に生まれ養女に出されたが、児童期に精神症状が出現したので精神病院に強制入院させられたことで親子関係が断絶状態となる。大人になってからは生活保護を受けながら、病院近隣のアパートで一人住まいをしながら調子を崩せば入院を繰り返す生活をされていた。

65歳になり介護保険の利用が始まったことで、私との関係が始まる。しばらくは安定した在宅生活を送っていたが、70歳を過ぎた頃から認知症状も出現し、薬物依存が強くなり、複数の医院から強い鎮痛剤の処方を受け、過剰服薬により救急搬送されることも度々となった。

最終的に主治医から精神病院で無期限での入院となった。入院後、本人からは週に1回ペースで「遊びに来てほしい、○○買ってきて欲しい」などの電話あり。こちらもできる限りの時間を割いて会いに行った。そんなやり取りをするなか、「病院内でこれだけ穏やかに暮らしているこの方を本当に精神病院で人生を終わらせてよいのか? もっとこの方にあった生活環境があるのではないか?」と疑問を持ち、ご本人に確認したところ、自分ももっと自由な環境で暮らしたいとの意思表示あり。
たまたま自法人の理事長が精神科医であったこともあり、自法人の特別養護老人ホームに掛け合い入所にこぎつける。入所以降は職員とワイワイガヤガヤと食事に出かけたり、行楽に出かけたり…と彼女の今までの人生ではほとんどできなかったことがたくさんできた。

ホームの職員もできるだけ要求に答えしようと対応してくれた。ここに来れてよかったと本人弁。終末期、意識朦朧としておられた時私が訪ねると、かすかではあるが目を開けて、動かなかった手をほんの少しだけれど握り返してくださった。

お葬式には永年連絡が途絶えていた義理の妹さんにも弔問していただくこともでき、墓に納骨させてもらいますとのお言葉もいただき、幸せな人生を送られたのではないかと思っている。

Bさんのお話

精神疾患のあるBさん。若いころから閉じこもりがちで、友人はいなかった。介護保険施行と同時に担当ケアマネとなる。
措置の時代から利用していたヘルパー事業所のヘルパーさんのみが会話できる人物であった。当初は私が男性ということもあり、話しにくかったようです。私はできるだけ親近感を持って頂こうと楽しい会話を心がけ、訪問回数を週1~2回にし、電話での安否確認などできる限り行いました。

やがて、一人ぼっちで参加していたデイサービスでも職員との会話が増え、そのうちに話ができる利用者が徐々に増え、能面のようなお顔をしていたBさんは顔面をクシャクシャにして笑うことが出来るようにまでなられた。もともと病気に対して過敏で救急搬送も時々されていたが、晩年は頻繁となり在宅生活は困難と考えられた。
ご本人は施設入所をずっと拒絶されていたが、翻意され特別養護老人ホーム入所すると決意された。本人は「入所したら遊びに来てや! 来んかったら、しばくぞ~」などと冗談まで言ってのけた。そんな折、入院先の病院で急逝された時にはびっくりであった。

葬儀社に直葬ではなく一日安置してほしいとお願いしたところ多数の事業者関係者がお参りしてくれ、葬儀社の方からはここに安置された方でこれだけの弔問者が来られたのは初めてだといって頂いた。
ご本人も天国で喜んでおられたと思います。

Cさんの話

ご近所の方から「近くの○○さんが奥さんのことで困っているようなので、お節介やけど一度話を聞きに行ってあげてほしい」と電話があり、当事者の了解を得て訪問。
奥様に声をかけるも、意識は薄弱でこちらからの問いかけには小さな弱い声で返答されるが聞こえない状況。夫曰く「風邪ひいてからこんな風になった」と。ブルーシートの上に直接、寝かされていて尿臭がひどい。よく見るとシートに尿が貯まっている。
夫曰く「自分でトイレに行かず垂れ流ししてしまう。こっちも何回も連れて行けないし、布団も汚れるからこのようにしているんだ」と。食事は自力摂取が困難で要介助判断したが夫曰く「弁当を買い与えているが食べない。食べたくないのならば仕方がない」と放置…。

医者には見てもらったかと尋ねると夫曰く「普段から医者にかかっていないからどこに行ったらいいのか解らないし、第一こんな状態で連れていけない」との返事。
という訳で…ご主人の了解を得て近医に連絡し、往診に来ていただき救急搬送となる。結果は脱水と栄養失調との診断であった。
3週間ほど入院されたが、やはりADLの低下は否めず、入院中に介護保険の申請をした。奥様の移動や入浴をしやすくするために住宅改修(手すり、風呂)とベッドレンタル、訪問介護の導入によりご主人の負担軽減と精神的フォローを行った。私も数多く訪問し、その度に介護に関する種々のアドバイスを継続的に行った。

その結果、一年ほどで、奥様も最小限のサービス利用のみで生活が送れるようになった。「あの時にあんたが来てくれへんかったら、どうなってたんやろうなあ?」と夫婦で笑いながらお話された時には、ホントに大事に至らずよかったなあと思った事例です。

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